ひまつぶし


by ochakennwoope
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自分を抑えること

身体を抑える人もいれば、精神を抑える人もいるだろう。
前者はこれ以上使えば、体が疲労に耐えられないときに使う。
後者は複数の場合がある。
これ以上使えば精神が疲労に耐えられないときに使う。
思考の中断あるいは停止を意味する。
また、頭に浮かんだ計画を行動すれば破滅に繋がるから実行させないようにすること。
思考の完遂の後に実行を拒否することを意味する。
このことに関しては、身体を抑える-精神を抑える の間に位置すると考える人もいるかもしれない。

思考を中断、あるいは停止することは不随意的なことではないだろうか。
一方で行動の拒否は随意的な行動。

ochaken自体は後者が多いと思っている。
思考の中断は意識に上ってこないから潜在的にはあるかもしれないが…

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思考を放棄してしまえば、跡には行動しか残らない。
行動する人間は、その行動の期間、行動を選択することを放棄しなければならない。
すでに選択を完了した状態である。
これは社会人として~という職業人になった、という状態と
職業人にならないと決めた、という状態で例えられる。

職業人になる前こそが考えるべき段階で、多くの人が良く考え、苦悩している。
就職の後に、何かを諦める人が多いのはそういうことだろうか。
思考の放棄は人間性の放棄に近い。
思い遣りの放棄でもある。
人は常に変わり続ける。そのため、考え続けなければ、思いやり続けることは出来ない。
「この人は~という人」という言葉は、行動するためには必要だ。
つまり思考を放棄するために必要であるが、思い遣りの一時的な放棄である。
『思いやりから出る行動』のために放棄する思考は、後で必ず回収しなければいけない。

思考と行動は対立し、同時には成立しない。
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by ochakennwoope | 2006-06-08 12:08 | 日記

他人の日記を読むと

意外に良いことがあるんだなぁ、と思った。単なる気晴らし以上に、という意味。
Utadaの日記だったんだけど、

『楽しいことは似たり寄ったりで、個人的な思い出ではないか、あるいは他人も同じような経験をしているようであるけれど、
苦しいことや悲しいことは、自分だけがすべて自分だけで感じ取った思い出のようで、とても個人的な記憶として残る。
更に、そんな自分だけの記憶だと考えられるものは大切にしていきたい』
というような趣旨のことを読み取った。
もちろん誤読の可能性は大いにあるので、直接読むことをお勧めするのだけれど。

『苦しみや危険を回避するのは、快楽や喜びを得ることよりも、
もっと基本的に必要な能力だ』
という、これまでの僕の意見よりも人間らしい感情が込められていて、
この意見は覚えていたい、と思った。

『自分だけの特別な記憶』
というフレーズが気に入っただけかもしれない。
自己同一性、自分の存在を確立すること、
自分の役目を持つことや、自分を含めた人たちから必要とされることからも得られるのかな。
自分だけの記憶を持つこともここに繋がるのではないだろうか?

もっと苦しめ、もっと頑張れ、などと言うつもりはさらさら無い。
十分苦しんでいる自分に気づき、
自分を確立しようとしている自分の姿を、誇らしく思っても良いのではないだろうか。

もっと苦しみたい人や、もっと頑張りたいと言う人も、
自分の体や能力に限界があることを知って、それを支えているものの存在を含めて
自分の幸福の一部としての
自己の確立
ということを、もう一度考え直せれば、
『だらしない、努力が足りない、なまけるな』などと思う前に
”我が振り”を直せるだけでなく、より広く深い幸せに近づけるのではないだろうか。

そうしなければ、他人を思いやることができないのは言うまでも無いかな?

少し以前の僕には考えることすらできなかったことだが、

社会人には当然か。
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by ochakennwoope | 2006-06-03 13:18 | 憂鬱な学校生活